「特別英語が得意なわけじゃないんです。まさかこんなに長く、語学を扱う仕事をするとは思いませんでした」と語る栗原慶子さん(63)。栗原さんの現在の仕事は、インターナショナルスクールで日本語講師をしながら、オンラインで海外在住の方へ国語を教えることや子どもに読書を身近に感じてもらうための指導など、語学力を活かしている。女性の4大卒は就職難とされ、寿退社が当たり前とされていた時代を駆け抜けた栗原さん。出産や病気でのブランク期間を経て感じたことや、これからの仕事に対する思いをうかがった。
*今回はオンラインで取材を行いました
*掲載しているお写真は、ご本人より提供いただきました
就職難でも、どうにか新卒で仕事に就くことができた
栗原さんが新卒で就職活動をしていた時期は、まだオイルショックの名残があったころ。4大卒の女性採用はほとんどなく、募集があっても実家暮らしが必須である企業ばかり。1人暮らしだった栗原さんは、それでもどうにか新卒で就職することができた。
数年間働いたあとは、キャリアアップを考えて転職を検討。そこで、たまたま求人誌で目に入った会社が、フランスの外資系・医薬品商社だった。
『フランスの風を一緒に感じてみませんか』
キャッチコピーがとても印象的で、今でも覚えているそう。
栗原さんと海外の繋がりは大学時代に遡る。大学時代に父親が海外で仕事をしていたため、大学が休みに入る度に父親のもとを訪ねていた。当時から漠然と海外に興味を持っていたことも、今回の転職を後押ししたという。秘書は未経験だったが無事に採用され、その後10年間働くことになった。
模索しながら「できること」を増やしていった
栗原さんが転職した時期は、日本支部が立ち上がったばかり。社内はフランス人やアメリカ人も在籍しており国際色が豊かだったそう。入社してから知ったというが、社内言語は英語だった。
「英語の読み書きは大学受験で勉強しましたが、その程度です。帰国子女でもないし、特別英語のレッスンを受けた経験もありません。社内回覧が回ってきても、何が書かれているのかわからなかった。机上にはいつも英和・和英・英英辞典の3点セットを用意して、冷や汗をかきながら調べていました」
仕事はスケジュール管理から書類整理をはじめ、医薬品の申請のために厚生労働省の担当官に話を聞きに行ったり、リーフレットや宣材を作ったりと多岐に渡った。「要するに何でも屋です。誰も仕事の仕方がわからないので、自分で模索しながら進めました」
また、秘書という職種柄、これからどんな仕事が入ってくるのか業界の動向にも敏感だった。そんな中、世間を騒がせた病気がHIV(エイズ)だ。当時は日本の医薬会社でも検査薬は未開発だったため、競合他社を含めて早急に新薬の開発に乗り出すことを察するのは容易だった。
「ちょうど秘書の仕事も落ち着いていた時期で、新しいチャレンジに興味が湧きました。当時はネットで検索する習慣も、医薬の知識もなかったです。でも、好奇心の方が勝っていて、新しいプロジェクトの参加に立候補しました。医学書を引っ張り出しては、言葉を一つひとつ調べていきました」
その後数年を費やし、フランス本社の検査薬を世に送りだすことができた。そしてこれらの経験が仕事をする上での大きな基盤となったと栗原さんは語る。
独立のつもりがブランクに。できることを着々と
無事に検査薬が市場にでて、仕事の区切りが良かったタイミングで、次のステップとして独立を考えた。人脈もそれなりに増えていたし、パソコン入力などのデータコーディネーターの仕事で独立してもなんとかやっていけるだろうと判断したのだ。
思い立ち、退職の意志を告げた1週間後に妊娠が発覚。36歳の結婚から5年目、41歳にして初めての妊娠だった。会社に残ることも考えたが、一度告げた退職は取り消せず、退職と共に無職へ。無事に出産するも、今度は子どもが5歳のときに栗原さんの乳がん、続けて夫も大病を患い、1年間の入院生活を余儀なくされた。
ようやく家庭が落ち着き、徐々に仕事復帰を検討し始めたころには独立後に予定していた仕事も流れてしまったそうだ。会社勤めに戻ろうと求人誌を見るも、仕事のブランクで断られるケースが大半だったと語る。
しかし、雇用されることを待っていたら、ブランクの期間だけが延びてしまう。では、自分ができることは何か。「そこで目に入ったのが学習教室の講師でした。これなら自宅で出来る!と思いました」
就職難のために選んだ手段だったが、やるからには、しっかりやる。必須の国語と算数の授業に加え、栗原さんはさらに英語、理科、社会の授業が行えるよう講習を受けて付加価値をつけたそうだ。
努力の甲斐あってか、少しずつ生徒が集まるようになった。幼稚園児から中学生まで、気付けば40人まで生徒が増えていた。
授業は15時スタートで終わりが19時ごろ。そのほか、授業の準備や保護者対応に追われ、ほとんど休みもなかったという。「とてもありがたいことですが、予想以上に生徒さんが増えて、自宅のマンションで行うことが厳しくなってしまいました」
その後は派遣スタッフとして主に英語を活かした仕事に就き、現在は週3回インターナショナルスクールの日本語講師を中心に働いている。
結婚と仕事を分ける必要はない
栗原さんの新卒当時は寿退社で家庭に入る人がほとんどだったという。親世代からは、「なぜお付き合いしている方がいるのに、すぐに結婚しないのか」と不思議がられたとも語る。気持ちが揺らぐことはなかったのだろうか。
「周りが何を言おうと、仕事も結婚も、自分の意志で決めたいと思っていました。そもそも、結婚しても働けるし、結婚しなくても理解者がいれば幸せだと今でも思います。それにどうして結婚と仕事を天秤に掛けなきゃいけないんだろうって」
10年間付き合った彼氏は、現在の夫となった。結婚する前から、栗原さんの気持ちをきちんと理解してくれているそうだ。
今後も仕事の依頼がある限り、気力体力があれば仕事はずっと続けたいと語る栗原さん。
「起業も興味があるし、エッセイを書いたり本も出版してみたいですね。また、自分の好奇心とは別に、家計を支える仕事もいつでも取り組んでいたいと思います。自分にとって、仕事をすることは自然なことなんです」
時代に流されず、自分で道を切り開いてきた栗原さんを支えるのは、新しいことに興味を持ち、飛び込んでいける好奇心の強さなのかもしれない。これからも挑戦は続きそうだ。
結婚前にもらった万年筆と腕時計は、いまでも大切に
「万年筆と時計はどちらも結婚前に夫からプレゼントされたもの。万年筆は作家に憧れがあり、“作家と言えば、万年筆”といったイメージがある世代ですので選んでくれました。右の赤い万年筆は手帳に書き込むときに使っています。左の黒くて太い万年筆は、主に見て楽しむことが多いです」
左の銀色の時計は26歳のときの誕生日プレゼント。30年以上使い続けている。丸くて見やすいからと、普段使いに。右側の金色の時計も結婚前にもらったもの。お出かけするときに活躍する。
ライター:松永 怜(まつなが れい)