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週末「スイーツアーティスト」。相手の喜ぶ顔が、二足のわらじの原動力

「はじめまして」と手渡された名刺に描かれていたのは、チョコレートのイラスト。週に5日、東京・日本橋のヤマサ醤油株式会社で、派遣スタッフとして働く伊下田良美さん(46)には、もうひとつ「スイーツアーティスト」という顔がある。不安やジレンマに苦しんだ時期もあったが、自分らしさを思い切り発揮できる2つのフィールドを得て、いま、伊下田さんはキラキラと輝いている。

0.1秒も無駄にしたくない。自分との勝負です

約2年前から、ヤマサ醤油の商品開発部で、タレや調味料のサンプルづくりに携わっている伊下田さん。社員が作成したレシピに沿って、200~300種類もある原材料から必要なものを0.1g単位で計量して配合し、いくつもの工程を経て仕上げる。

「神経をつかう仕事ですが、自分が関わった商品をCMで見かけたりすると、裏方ながら、やったーって思いますね」

一見、おっとりしたイメージだが、スピーディな仕事ぶりには定評がある。通常、1つのサンプルに要するのは2時間弱。1日4つをこなすのがせいぜいだが、伊下田さんの場合、毎日5つずつこなしているというから驚きだ。

「時間内にどうやれば早くできるか、自分の中でいつも目標を定めて勝負しているんです。0.1秒でもムダにしたくない。だから、いつも3つぐらいの動きを同時並行でやっています」

30代で、料理の世界に飛び込んだ

自らの性格を「せっかち」と分析するが、段取りや動線を考えて、自然にからだが動くクセは、飲食の仕事でしみついたのかもしれない。実は、伊下田さんには、フレンチレストランやカフェで働いていたキャリアがあるのだ。

「新卒で一般の企業に就職したのですが、毎日変化がない生活が性に合わなくて、30歳を過ぎた頃、思い切って、昔から好きだった料理の道に飛び込んだんです」

レストランでは、オードブルやデザートを任されたことも。

「コックコートを着たままデザートプレートを持っていくと、わーって歓声があがって、お客様が笑顔になる。そんな瞬間が醍醐味でした」

「なんでもいいから、仕事がほしい!」

ところが40代に入ると、拘束時間の長さや不規則になりがちな生活がきつく感じられるように。何軒か店を移りながらスキルを磨いてきたが、面接でも不採用が続いた。

「私くらいの年齢では、料理長クラスの立場が求められるけれど、自分にはそこまでの力はないと思っていました。給与面でも折り合いがむずかしいんですよね」

いまはさばさばしているが、当時は、仕事が決まらない不安と焦りで、何も前向きに考えられなかったという。

飲食にこだわっていても無理があると判断した伊下田さんは、「とにかく職を」と気持ちがはやり、派遣スタッフとして登録。働けるのならどこでもいいとさえ思っていたが、いまの職場を紹介され、「運命を信じたくなった」と振り返る。

「最初にサンプル作った時に、就業先の社員の方に『伊下田さん、早いよね』って喜んでもらえてすごくうれしかったことを覚えています。もっとお役に立ちたいなと思った。やりがいもあるし、これまでの経験もいかせる。本当によい出会いをいただけました」

「思いを込める」が、わたしらしさ

「スイーツアーティスト」の名刺を作ろうと思ったのも、ヤマサ醤油での就業が決まったからこそ。土日が休みになり、時間的にも精神的にも余裕ができたことが、背中を押したという。

この2年間、出張レッスンやお菓子教室、オーダーを受けたデコレーションケーキづくりや、既存のレシピを何度も改良を繰り返し、自分なりの味わいを探究する“闇練”など、週末のほとんどをスイーツにあててきた。モンブランなら栗の渋皮煮から作るし、タルトだったら、粉を“混ぜない”工夫で、最高にさっくりした生地に。リッチな生クリームも、ふわっと軽い口あたりに仕上げるのがこだわりだ。

最近、友人に贈るタルトを作り、「気合いっぱい入れて作ったからね」とメールを送ったら、「いろいろおいしいお菓子を食べてきたけれど、格別な味だった。伊下田さんが思いを込めて焼いてくれたからだね」と返信がきて、感動した。

「彼女のことを思い浮かべながら一生懸命作った努力が報われたようで、涙が出そうになりました」

派遣スタッフとして働く平日と、「スイーツアーティスト」として活動する週末。いま、両者がとてもよいバランスで、それぞれに好影響を及ぼし合っているような気がすると、にこやかな表情で伊下田さんは言う。

「職場でレシピに忠実にスピーディにサンプルを仕上げるのも、どんなフルーツが好きかなとか、アイシングクッキーの文字は何色がいいかなとかあれこれ悩むのも、私にとっては同じようにかけがえのない時間。どちらも、“相手の笑顔”が、わたしのエネルギー源です」

「欲をいえば、スイーツアーティストのほうで、もう少し認知度を上げたいかな」と伊下田さん。「発信していくためにも、とりあえずガラケーをスマホに変えねば、ですね(笑)」

取材後、早速Instagramを始めたそうで、アカウントを教えてもらった。伊下田さんの今後の活動の軌跡を、ぜひのぞいてみてほしい。

ノートに、オリジナルレシピや改良のプロセスがびっしり

デジカメに記録されているのは、フルーツたっぷりのデコレーションケーキや、キュートなアイシングクッキーなど、これまで作ってきたスイーツの数々。

レシピノートには、カフェのドリンクからインスピレーションを得たオリジナルレシピのほか、既存のレシピのマイナーチェンジや改良のプロセスがびっしり書き込まれている。

お菓子作りの道具は100均で調達することもあるが、「みなさんにオススメしたいのが、これ」と示したのは、フランスのマトファー社のホイッパー。「持ち手がしっかりしていてすべらないし、すごく丈夫。もう15年くらい使っています。少し値が張るけれど、1本あると重宝しますよ」

職場では、白衣がユニフォームだが、家でスイーツをつくるときは、刺繍がかわいいエプロンで。もう10年以上使っているそうだが、しみもなくパリッとアイロンがかかっていて、何事にも手を抜かない伊下田さんの人柄がしのばれる。

ライター:高山 ゆみこ(たかやま ゆみこ)
坂脇 卓也(さかわき たくや)