自宅での練習も含めると、週に4日ほどフラメンコを踊っているという堀澤麻紀さん(53)。13年前に出会ってから少しずつ夢中になり始め、今はフラメンコを中心とする生活に。派遣スタッフとしての仕事では、人と接することが喜びで、性に合っているという。今のような働き方になるまでの経緯や、現在の生活をうかがった。
イギリス留学から帰国し、人と話すのが好きだと気付いた
「『赤い靴』というドラマにあこがれてバレエを始めた」という堀澤さん。主人公がいじめられる設定だったものの、プリマドンナを懸命に目指す姿に感銘を受け、自らクラシックバレエスクールの門を叩いた。「踊りが上手なわけではなかった」と言うが、踊れることに満足していたという。
「ずっと続けるうち、バレエで食べていきたいという思いが生まれましたが、高校生の頃に所属していたバレエ団で『主役級にはなれない』と思い知りました。宝塚音楽学校の入学試験も受けましたが思いはかなわず、短大へ進学します。それでもバレエはずっと続けていました。結局、肩書より踊ること自体が好きなんです」
卒業後は一度就職したが、1年半ほどで退職し、イギリスへ留学。1年半の間、語学とバレエを学んだ。
「英語を学び、好きなバレエを続けながら、生き方を模索していました」
帰国後は英会話のスキルを活かし、派遣スタッフとして旅行会社の添乗員に。ハネムーンのツアーが多く、欧米やカナダ、オーストラリア、ヨーロッパ周遊など、さまざまな場所に同行した。
「そこで、人と話すことが好きだと初めて気が付きました。個性が重視される留学体験を経て、マニュアル通りではない仕事のやり方が楽しかったのだと思います。添乗員の仕事で話題の引き出しが増えて、さらに会話が楽しくなっていきました」
その後いくつか接客の仕事をするが、笑顔をもらったり、「ありがとう」と言われたりすることに喜びを感じていた。ただし、その頃はバレエからはすっかり遠ざかっていた。
のちに生きがいとなるフラメンコに出会う
堀澤さんの生き方をすっかり変えてしまったのは、フラメンコの存在。習い始めてすぐに夢中になったわけではないが、細く長く続けていたのだという。
「6~7年経った頃、フラメンコを踊る人は単なるダンサーではないとわかったんです。実はギター奏者や歌い手さんが主役で、フラメンコを踊る人は指揮者のようなもの。周りの人を立て、まとめていくという人格形成が大切です。それがわかってから、本気で取り組むようになりました」
その後、フラメンコをより深く学ぶためにスペインへ留学する。その行動力には驚くばかりだが、堀澤さんはとても静かに語る。
「本場で習うのは、やはり違いました。その土地に根差したジプシーの踊り。現地の方は小さなころから踊っているのもあり、スピードや迫力、何もかもが体に染みついています。私はどうしても『日本人が踊るフラメンコ』になってしまいますが、『日本人だからこそ踊れるフラメンコ』を目指したいです」
帰国すると、フラメンコのレッスンなどに支障が出ないよう、負担の少ないアルバイトとして働く。1年半ほど経った頃、もう少し経済的な余裕が欲しいと、現在の派遣という働き方を選択した。
「今はスーパーでお客様にクレジットカードをお勧めする仕事で、人と接するから楽しく働けています。決して気を抜いているわけではないのですが、体力的にも精神的にも張り詰めているフラメンコに対して、仕事はほっとできるひととき。仕事があるから経済的に余裕ができるという意味でも、私に安心をくれています」
死ぬまで踊り続けたい
現在は、父が入院し、母がうつ病を患っているため、少しとはいえ介護の負担もある。
「週に2日ほど病院に行く程度ですが、これからどうなるかわからず、自分のことはあまり考えられない状況です。妹と弟がいるので、協力して親をサポートしていきたいと思っています」
自分のための具体的なプランを描くのが難しい状況でも、フラメンコをずっと続けていくのが願いだ。
「死ぬまで踊りたいと思っています。それができればいい。でもひとつ不満があるとすれば、パートナーがいないことでしょうか。以前13年ほど結婚していたことがあるのですが、あまりお互いの意見を言い合えず、喧嘩も少ない夫婦でした。今度はたくさんのことを話し合えて、喧嘩ができて、わかり合える関係性になりたいです」
情熱的なフラメンコに生活のほとんどをささげながらも、インタビュー中はいたって冷静に淡々と話す。静かな情熱を秘めた堀澤さんは、それこそ命が尽きるまで、フラメンコを通して自らを燃やし続けていくのだろう。
旅行先での思い出とともに
「スペインのセビリアに留学中、父が遊びに来たときに、『イタリカ』という古代ローマ時代の都市が見たいというので案内したんです。お礼に2万円をもらったので、そのお金を足しにフラメンコ用の靴を買いました。宝塚を受けるときは喧嘩もしましたが、もともとクラシックなどの音楽がすきだったのもあり、踊りも何度か見に来てくれたんです」
はきつぶすなら10年ほどは持つという白い靴は、職人が一足ずつ作る。日本で専門の職人に靴底を削って調整してもらったりと、大事に使っていくのだ。
今の仕事になってからまたつけるようになったという腕時計は、添乗員をしていた頃にスイスのインターラーケンという都市で購入した。赤い文字盤が気に入って購入したお気に入りだ。
カメラマン:刑部 友康(おさかべ ともやす)